子どもに習い事をさせるって社畜になれよと言ってるようなもんじゃない?
子どもに習い事させることって
社畜になれよと言ってるようなもんじゃない?
そんな仮説がふわっと浮かんできた。
ぶっちゃけどうなんだ?
ちょっと考察してみよう。
さかのぼること小学生時代
ぼくの小学生の頃の記憶なんて偏ってた。
・習い事(めっちゃやってた)
・ゲーム
・友だちと遊ぶ
くらいしか思い出せない。
その中でも特に楽しかったものはゲーム、友達と遊ぶことでした。
自分からやりたいもの楽しんでるものには夢中になった。
誰に言われることなく目標決めてやり続けていました。
しか~し、習い事は違う!
習い事は頭で考えることなく通ってました。
何を学ぶかどこに通うか親が決める。
きれいなことばを並べて「習ったら?」と誘ってくる。
ぼくは親のことばを鵜呑みにするしかなかった、信じてたから。
もちろん思考停止。
決まった時間に決まったことをやる。
今日は平泳ぎをやりましょう。
→平泳ぎをする。
今日は車の絵を描きましょう。
→車の絵を描く。
言われたことをこなすだけ。
意思決定は先生の仕事。
まぁ、ほとんど自分のペースでやってたんだけどさ。
・意思決定権がない
・決まった時間に決まったことをこなす
・とりあえず続ける
完全に受動。
これって社畜と一緒じゃないですか?
負けず嫌いと挫折が感情を動かす
今度は別の習い事の話をします。
公文式に通ってたとき、さんすう・数学のみぼくは変態だった。
小学校低学年にして内容は中学1年生レベルを解いていたのだ。
間違えたら正解するまで帰れなかいシステムで
ぼくは17時にまでに帰宅することを目標にしていたので
17:30くらいまでやって解けなかったら泣いていた。単純に悔しかった。
でも帰宅難民になることはなかったので最後は満点で終えていたのだろう。
まんまと公文式によい風に洗脳され、
ぼくはやれば何でもできるやつ。と勘違いしていた。完全に天狗だよ。
人生そんなに甘くはない!
ピアノ教室ではそうはならなかった。
曲のレベルが上がるにつれ、演奏が難しくなる。
全然うまくならない。
ゴールが見えない果てしない練習。
当然、何度も失敗する。
何度も間違えた音を耳にする。
それがぼくには耐えきれなかった。
うまく弾きたいのにうまく弾けない自分に腹が立ち感情が爆発した。
泣いた。もうムリだと思った。
TVで見る演者のようにぼくはピアノを弾くことはできない。
中途半端に習ってたから当然の結果なんだけど、
はじめて味わった挫折、敗北感、絶望。
マジで ↓ こんな感じだった。
恐怖ではなかったけど。
つらかった。もう行きたくなかった。
つらすぎてぼくは逃げ出した。
親のひとことが社畜かどうか決める
http://ganref.jp/m/tenkawa/portfolios/photo_detail/6d26bb3b9a068a0b8940d07a42f54c80
あれから全くピアノを練習したいとは思えなかった。
つらい、しんどい、残念だけどストレスでしかない。
それでも火曜の16時はやってくる。
来週も再来週もやってくる。
ぼくはもうだめだと思った。
行きたくない、行きたくない。
もう辞めよう。
ちょっと待って!これって社畜と同じじゃない?
当時のぼくはシャチクという言葉を知らなかったけど
社畜っぽい状態になっていました。
その後、最終決定権である親に辞めたい旨を伝えピアノ教室を去りました。
親はちゃんとぼくの状態を把握していました。
このときに
辞めるなんてもったいない
とか
もう少し続けたら
なんて精神論を親からぶつけられていたら完全にやられていたと思います。
人を生かすこともあれば、人を潰すこともある、それが習い事なのです。
せっかく習い事をさせるんだったら
習う内容以外にも時間のコントロールが可能かどうかでも選びたいところです。
決まった時に決まったことをする。
好きな時に好きなことをする。
ぼくに子どもができたら両者を習わせたいですね。